今まで、アクティブシニアの父の話題を多く取り上げてきましたが、今回は母について触れてみます。
母は現在88歳、米寿です。どちらかというと私が知るかぎりでは、典型的なインドア派(おうちにいるタイプ)です。
目次
子供のころ~娘時代
定かではありませんが、赤ちゃんの時の写真が残っていたり、お手伝いさんがいたという話から、まあまあのお嬢様だったようです。
小学生の頃は、そろばんを習い、今でも計算は大得意です。
第二次世界大戦後が始まり、東京に住んでいた母の家族は、母方(私のおばあちゃん)の親戚がいる石川県に家族で疎開しました。その時、持っていた雛段飾りも残念ながら処分してきたと話していました。戦争により生活が一変してしまったのですね。おばあちゃんが持っていた着物を農家に持っていき、食料となるじゃがいもなどと交換したそうです。
戦後は東京に戻り、おじいちゃんは染物工場を営み、母は染めた糸の束を自転車でお店(おたな)に運び家業を手伝っていたそうです。(母いわく、両親は自転車に乗れなかったし、弟妹もまだ学生で、自分がやるしかなかったとのこと。)染めた糸は重くて重くて橋を渡るときが一番きつかったと、いまだに語ります。
家業を手伝いながらも、お花や和裁の習い事もしていた娘時代でした。
結婚~子育て
1958年4月4日に父と結婚しました。知人の紹介だったそうですが、ほぼ、おばあちゃんの意見が大きかったと思われます。何事にも厳しかったおばあちゃんのお眼鏡にかなった父はさすがです。
結婚した翌年には姉が生まれ、その2年後に私が生まれました。
母は専業主婦でしたが、私の記憶によると、子育てをしながら、編み機を持って機械編みの教室に通っており、姉と私のセーターを編んでくれました。
父は警察官でしたので、台風などの警報が発令された時は出勤して行くため、母は木造の家族寮の雨戸のないガラス窓を、台風が通過するまで一晩中押さえていたのを覚えています。
ここで、私の幼少期の記憶にある母の教えをあげていきます。(これはたぶん、しつけに厳しかったおばあちゃんの教えからきていると思います。)
★丼物を真ん中から食べない
★座るときには足を開かない
★魔女の真似をしない→ホウキにまたがらない
★食べるときは座る
★買い食いはしない
★炊き立てごはんは、まず父へ
★寝てしまった人には毛布をかける
★人をまたがない(やむを得ない場合は「失礼」と言う)
★おならをしたら「失礼」と言う
★デパートにライバル店の手提げ袋を持ち込まない
私が幼稚園前のこと。母と一緒に姉の小学校のPTAの帰りに、近所のママ友(当時はない言葉)数人とお蕎麦屋さんに寄りました。母は玉子丼(母は鶏肉が嫌いなので親子丼ではない)を一つ注文し、「先に食べなさい」と言われたので、ガッツリ真ん中に箸を入れたところ、「全部食べられないのだから、端(はじ)から箸をつけなさい」と教えられました。小さいながらも気づかされ納得したのを覚えています。
電車に乗ると、膝をつけて座るものだと何度も注意されました。女の子は足を広げないというのが最大のモットーでした。ましてやホウキ(当時は掃除機などなく、もっぱらホウキでお掃除です)にまたがるなど言語道断。「魔法使いサリー」のまねがしたくて母の目を盗んで、姉と交替でまたがってました。
立ち食いはお行儀が悪いと育てられ、座るところがない場所では物を口にしませんでした。そとで遊んでいてお菓子をもらっても、家に持ち帰って「○○さんからもらった」と報告をして食べる。もちろん買い食い(子供が菓子などを自分で買って食べること)は禁止。しかしながら、子供は駄菓子屋であれこれと選んで食べるのも遊びの一つ。チョコチューブをチューチューするのが憧れでした。まじめな私は、奔放的な姉がそれをやってのけるのをうらやましく思い、母にチクる。母は1mぐらいの「ものさし」を持って、逃げる姉を追いかける映像が今でも思い浮かびます。(ものさしでどうしていたのかは定かではない。)
当時は炊き立てごはんは貴重で、仕事柄、帰宅が遅くなり一緒に食卓を囲めない父のためには、まず一口サイズの炊き立てを父のお茶碗によそい、それから私たちがいただくというのが常でした。「父は偉い」という象徴でした。
ウトウトと寝てしまったら、お腹が冷えないように何か掛けてあげる。これは思いやりなのですが、小さいころは決まり事のようにそうしていました。部屋でゴロンと横になった人をまたぐ時、おならが出てしまったら「失礼」と言うのは当たり前のことかな?
しかし、「デパートにライバル店の手提げ袋を持ち込まない」なんて、今ではあり得ないことでしょう。デパートのはしごができないじゃないですか。例えば、松坂屋の手提げ袋を持って三越へ入ると、お店の人に失礼になると思っていたようで、母はそう言いながら手提げ袋を隠すように持っていたのを覚えています。
ばあちゃん時代
姉は男の子・女の子、私は女の子、男の子の子供をもうけ、父と母はじいちゃんばあちゃんになりました。よく面倒をみてもらい、今はみんな30歳を超えた孫たちです。
ばあちゃん時代の母の趣味は、推理小説を読んだり、クロスワードパズルを解いたり。本当にインドア派でした。西村京太郎や内田康夫、山村美紗などのミステリー小説の文庫本が、本棚にびっしりと(たまに同じ本がだぶったり)家の床が沈むのではと思うほどでした。パズルの本も一度に数冊も買ってきては解いていました。
姉の子供が小さいころに、姉一家が実家の2階に同居することになり、私は安心し、実家にはたまに顔を出す程度だったので、知らない部分が多々あるかもしれませんが、この二つの趣味は強烈な印象です。
現在
今は実家を建て直し、姉の長男一家も2階に同居して、ひ孫2人の賑やかな生活です。
母は数年前から徐々に認知症の症状が出始め、唯一の趣味として残っていたクロスワードパズルも段々とおっくうになってきたようです。
父が3回目の手術・入院のため、日中は一人になってしまう母は、平日はディサービスに通うようになりました。母には「学校」ということになっています。昔そろばんを習っていた母は計算は今でも達者で、姉がそれを施設に伝えたこともあり、簡単な計算プリントを用意してくれており、たまに持ち帰ってきます。
普段は姉にすべて任せっきりなため、ディサービスがお休みの日曜日は私の担当です。母の隣でパソコンを開くと、母は姉が用意しておいた計算ドリルを始めたり、一緒にお勉強をしている感じです。たまにおしゃべりが止まらなくなり、聞いてあげたり教えてあげたり。一時は持病の薬の影響でトイレのお世話が1時間おきぐらいでしたが、訪問診療の先生に薬を変えてもらったそうで、今は日中は普通に自分でトイレに行けるようになりました。(夜は姉が様子をみてくれています。)母の話につきあいながら、姉が遅番の仕事から帰るまで、意外と早く時間は過ぎます。
「じいちゃんはどうした」と何度も聞いてきて、その都度説明します。この前、入院している父から電話があり、母に電話を換わった時、母が「待ってるからね❤」と恥ずかしそうに肩をすぼめた姿がまるで少女のようで、思わず姉と笑ってしまいました。
今日も父から電話がありました。入院中の父は土曜日と日曜日はリハビリがなく、時間が流れるのが遅く感じられるそうです。喉や口腔内の手術をしたため、飲み込みや発声のリハビリ訓練が相当きついようですが、土日も自分なりに訓練しているそうです。91歳、依然として前向き人間です。
「声が変わったね」という母に、
そうだよ、新しいじいちゃんだよ。新しいじいちゃんになって帰ってくるからね。
と、言っていました。
そんな父にこのブログを見てもらうため、取り急ぎ母のことを記事にしました。
今日は、母のお鼻の下を剃りました。じいちゃんが帰ってくる前にはもっときれいにしようね~と。
あせらずリハビリに励んでください。「待ってるからね❤」