ふたりの旅立ち
私のブログでは、父や母の記事が多くあります。数年の投稿ブランク後、再スタートをきるにあたり、触れないでいることはできないと思い、記事にして記録しておきます。
父の旅立ち
父は2024年7月に92歳で旅立っていきました。9月に誕生日を迎えれば93歳でした。
普段から姿勢もビシッとし、スクワット運動をしたり、歩くのも同年代の方よりも早く、記事でも紹介したグラウンドゴルフを楽しんでおり、何でも自分でやり、100歳まで、いやそれ以上生きてもおかしくないと思っていました。90代にはとても見えず、病院で呼ばれて診察室に入って行くと、年齢から想像していた人物ではないため、看護師から本人かどうか確かめられるということがしばしばあったと父は笑っていました。
でも、残念ながら病魔には勝てなかったということです。
数年前に発病後、1回目の手術、しばらくしての2回目の手術と、術後は順調と思っていました。父は弱いところを見せない人でしたが、ある時、左肩が痛いと言い、まさかそれが転移だったとは本人も家族も思っていませんでした。
約1週間のつらい治療に通うことになりました。姉の日は車で、免許のない私が付き添う日は、8駅先の大学病院まで電車で行きました。自宅から最寄り駅までは自転車に乗り、まったく弱音を吐かなかったのでそれで大丈夫なのかと思っていました。しかし着いた駅から病院までは途中で何度も休んで歩きました。嫌がっていた杖を姉が持たせてくれたのは正解でした。今思うと相当つらかったのでしょう。でも、帰りの電車では、終点となる最寄り駅に着いて降りる寸前、ドアの横の席で熟睡していた青年の足をポンとたたいて起こしてあげるやさしさはなんということでしょう。
次の日の治療は自宅と病院の往復はタクシーを使いました。腕の重さが痛い左肩にのしかかるので、私のバッグをひじ掛けにして支えました。
しかし、数日間のつらい治療は効果が得られず、副作用なのか食欲も落ちたので、体力をつけるためにと、入院をすることになりました。病院では病室まで初めて車椅子に乗りました。杖や車椅子など、父としたら嫌がるものだったのに、それに頼らなければならないほどになっていました。でも、入院しなれた病院なので、知っている看護師さんに、「また世話になるよ」と笑いながら声をかけていました。姉が手続きをしている間、待合室で父は「6時からは入浴の時間だ」と私に言うので、入院セットの洗面道具を開けて「この色はシャンプーで、この色はリンス、この色は石鹸だよ。」とブランド物の横文字で書いてある小さなボトルを説明しました。父も私もそんな感覚で、入院すれば、きっと体力がついて痛みも抑えてもらえ、次の治療を考えられると思っていました。
入院して1週間後、医師からの説明を受け、自宅に戻るための胃ろう(栄養を胃へ直接入れる)手術をすることになり、約10日後の日程で決まりました。久しぶりに会う父は、もともと痰がからんで話しづらいこともあり、思うようにならない病状と痛み止めの処方のせいか、ずいぶんと変わって見えました。伝えたいことを小さい紙きれに書くのですが、達筆だった父の字が読み取れない。当時この病院では、次回の面会は早くて1週間後と厳しく決められており、1日でも繰り上げてはもらえませんでした。次の面会には大きな紙とペンをたくさん用意しようと思いました。
いよいよ面会の日、仕事を終えてからの予約時間だったのですが、午前中、職場で姉からの連絡を受け、すぐに病院へ向かうことになりました。到着すると、目を閉じたまま大きく顎を上下に動かし、一生懸命呼吸をしている父がいました。このまま数日間この状態が続くのかなと思いながらも、耳は聞こえているだろうから、好きだった歌を携帯電話からイヤホンで聞かせました。その後、洗面道具にシャンプーと一緒に入っていた櫛を思い出し、取り出して髪をとかしてあげました。あのつらい通院治療後のエレベーターの中でさえ、手櫛をして髪を整えるほど、身だしなみには気を付ける人でしたから。
ずっと手を握って、今のうちにと父の耳元で持論を伝えました。「亡くなると、一番いい時に戻って、みんなに会いたいときに会えるんだよ」しばらくして、一度だけ手を払う感じで動きました。え、いやなのかなと一瞬思いましたが、ああ、力を振り絞ってやっと動かしたのだと、もう一度握りました。
思いのほか別れは早く来ました。あんなに息をするために上下していた顎の動きがなくなり、ほっぺがぷくっと膨らんでへこんだ。
いや~まいったよ、あの時はきつかったな。でも、今はあの世で元気に楽しんでるよ。ばあちゃんも来たしな。
母の旅立ち
母は2025年11月に90歳で旅立っていきました。月末に誕生日を迎えられれば91歳でした。
父が亡くなり、日中は家で一人になってしまうこと、デイサービスでは送り迎えができないこともあり、母は施設に入りました。週に1回は姉と私が交代で面会に行っていました。たまに二人で行きました。認知症ではありましたが、姉と私のことはわかってくれていました。会話というより、母がぼんやりと話すことを聞いてあげ、うんうんそうだねと、ロビーでの面会時間はいつもそのように過ぎました。半分眠ってしまうこともありました。1日遅れの母の日の面会の時は、やっと見つけてきたカーネーションを渡したら、ギュッと握りしめて「ありがとうございます」と言っていました。たまにあるのですが、あまり丁寧だと、私だってわかってるのかな?なんて思ったり。そしてある面会日には、施設のコピー機を運び出している業者の方が目の前を通った時、母が「ご苦労様です」とはっきりと声をかけるのです。驚きました。そういえば昔から、定期的に来る便所の汲み取り屋さんにはたばこ1箱(父も誰も吸わないのに、そのために買っておいていた)をあげ、タクシーに乗れば、おつりはとっておいてと言うのを見てきました。その気持ちはいつまでも変わらないのですね。

足にむくみがあり、入院して調べてもらうことになったと、姉から連絡がありました。姉によると、入院後すぐに昼食になり、うどんをおいしそうに「あんたも食べるかい」とご機嫌で食べていたそうです。それが日に日に弱っていきました。環境が変わって慣れないせいか、ベッドの手すりを握りしめている状態でした。
こちらの病院の面会は比較的寛容でした。姉と私で交代のように仕事が終わってから病院に寄って、夕飯時間にはあまり進まない食事を口に運んであげたり、手をさすったり。帰るタイミングをみつけ、「じゃあね、また来るね」と。最初のうちは、「気をつけて!」と大きな声で言ってくれ、「うん!」と返事し、実家に遊びに行っていた当時と同じだなぁと。しかし、それからは、あまり声がでなくなって、早く帰りなさいというような手振りをしたり、どんなになっても相変わらず心配をしてくれる母でした。
食事を摂らなくなり、一度、危ないという時があったので、それからは覚悟はしていましたが、数週間は寝ている状態での面会でした。頭をなぜたり、身体をさすったり。「もうすぐ誕生日だからね、頑張ってね」と声をかけたり。
その日は、いつものように面会を終え、ナースステーションに「帰ります」と声をかけると、「あら?さっき来ましたよね?」と不思議な顔をするので、「ああ、姉が来たんじゃないですか?」前にも看護師さんが「さっき病室案内しましたよね?」と不思議そうに姉が病室に案内されてきて、すでに病室にいた私を見てびっくりするということがあったので、その日もそうだなとわかりました。小さい頃から似ていない姉妹だと思っていたのですが……。 すれ違いで面会したその3時間後ぐらいに、また病院へ行くことになってしまいました。姉と一緒に急ぎましたが最期には立ち会えませんでした。こういうことは思うようにいかないものです。
前年に父を見送ったので、こうだったね、ああだったよね、と進めることができました。でも、父が逝ってからこんなに早くとは考えてもいませんでした。母は父がいないことをわかっているのかどうかわかりませんでした。姉が考えて考えて考えた末、父の告別式前に時間を作り、施設から介護タクシーで送ってもらい会わせた時に、顔を見ながら「こんなに早くねぇ」とつぶやいたので、その時は理解したのではと思いました。わかっていたからなのか、わからなくなっていたのか、施設での面会時には一度も父の話はでませんでした。母が危なくなった時には安心させようと、耳元で「じいちゃんが待ってるから大丈夫だよ」なんて言ってしまいましたが、それから数週間、よく頑張りました。
これから
まだ母が自宅で姉と暮らしていた時、「やわさんは?」と突然言い、姉は「誰?」と一瞬考えましたが、父の名前(やわ○)から、「ああ、若い時に父のことをそう呼んでいたんだ!」とすぐにわかったと言いますが、今になって初めて知ったと笑い、それを聞いた時には、両親にもそういう時があったんだと、なんだか恥ずかしいような、「聞いてしまった~」と照れるような感じです。
私のブログのタイトルは「やわらか さんぽ」略して「やわさん」じゃないですか~!
これからも、このブログに父母が登場するかもしれませんが、これからは、自分のアクティブな様子などをお届けできるよう前進していきます!

私たちは、父と母でできています。なので、自分の中で生きていると思うと心強いです。
両親のことは同居の姉にいろいろしてもらって、大変だったと思います。感謝です。甥っ子家族も2階に同居してくれて、賑やかに楽しく幸せだったと思います。ありがとう。
一番長かった呼び方で言うね。じいちゃんばあちゃん、いつでもみんなのこと見に来てね。



